FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

わたしの「やさしさ」は、相手の望みとつながっていないかもしれない

本日新潟で行われた第19回日本認知症ケア学会大会で、
若年性認知症の当事者とそのそばにいる方々の話を聴く機会に恵まれました。

私はリリムジカの仕事をはじめて10年が経ちます。

それなりに「わかっている」つもりでしたが
「まだまだわかっていない」ことを痛感する内容でした。

多くの人に知っていただきたい内容だったので、
メモの中で特に印象に残った点を共有します。★印は私の感想です。

ちなみにモデレータをされた認知症当事者の丹野さん
軽いいじりも含めて登壇者の紹介、振りが素晴らしく、見習いたいと思いました。


まずは、認知症当事者の講演です。

元医師の男性の講演(現在50代前後)
運動が好きで、バスケットボール東日本医学部大会で
ベスト8に入ったこともある。

認知症の診断を受けて2年半。
電車にたとえたら衝突して立往生している状態

認知症にはなったが運動能力がある。
物事の理解もできる。読書もできる。

しかしインプットを取り出すのが困難。
今は診療の基本が無理だと考えている。

学習が蓄積されるかどうかが不安。
不安なときには気分転換が大事
スポーツをしたり文章を書いて頭を整理したりする。

日程の長期的な管理も難しい。
明日何をするか今日何をするかがとても不安。

買い物はできるが、お店に行くこと、
金銭管理をしたりすることができない。

治療のために以前施設に入所していたこともある。
何もしなくても1日は流れる。
時々非日常があると良い。
散歩に出かければ山の花で季節を感じることもできる。

若い認知症の人にとっては
精神的な状態と金銭的な状態が両方成り立って自立になる

当事者に対してはできることできないことを線引きする。
できないことを自覚することで、割り切って助けてもらう時に罪悪感を感じなくなる。

★これは、認知症になっていない私にとっても、言えることだと感じた。
すべて自分でやらなければいけないという固定観念があるから、頼るのが申し訳ない。
自分でできること、できないこと(すべきでないこと)を明らかにする。


認知症になった介護職員の方(現在30~40代男性)の講演
仕事においてしっかりしてと言われることが増えて自信がなくなった。
やめたくはなかったが職場と話し合って仕事を辞めた。
最初はハシモト病という診断だった。
薬を飲めば治ると思っていた。

心機一転特養に勤めた。
しかし仕事が覚えられない。
シフトを何度も確認した。
休みの日も休んで良かったのか不安だった。
記録をつける時も日付を覚えられないのでスマホを見て日付を確認した。
周りに不真面目だと思われているのではないか。
半年で新しい職場もやめようと思っていた。

そんな時に施設長におれんじドアを紹介された。
早く元の自分に戻りたい。仕事を続けたいと思っていた。

今はグループホームで働いている。
掃除や食事介助は身体が覚えていてできる。
散歩の付き添いも話をしながらゆっくり歩いてできる。

しかし新しい仕事についてはパニックになってしまう。
また夜勤や入浴介助はできない。
本来の介護の業務ができなくて歯がゆく感じる。

自分は介護の仕事を長くやったけど
認知症の人の気持ちはわかっていなかった。
自分でなってみて初めてわかった。

今は運転ができないことが辛い。
自分の住んでいるところは車じゃないと移動ができない。
車のコマーシャルを見るのも辛い。

出勤するとき、朝姉に駅まで送ってもらい
電車を2本乗り継いで最後は自転車で施設に行く。

複雑で緊張の連続。
乗り間違えた時は途方に暮れる。
切符や自転車の鍵がどこにあるかわからずいつも探している。
私の住まいでは終バスが5時だから職場を3時に出ないと帰れなくなる。
車が使えなくても自由に動けたらどれほど良いか。

本当にいろんなことが難しくて悩む。
今日このように講演しているが、最初は話すのが苦手で話せなかった。
最近は自分が思っていることを伝えたくて話せるようになった。

当事者を待ってほしい。
できないところだけやってほしい。
自分でできることは自分でやりたい。
できることをこれ以上減らしたくない。
何もわからなくなるのは想像以上に怖いです。


丹野さんの話
認知症という言葉だけで何もできない人、
ケアすべき人守る人と思われてしまう。

財布を取り上げられ、
家族は「目が離せないから自分の時間はない」と言う。
精神病院で縛られる人もいる。

多かれ少なかれこういったことがあるのではないか。

もちろん介護をする人は頑張っているし当事者から怒鳴られることもある。
しかし優しさでやっていることがよくないかもしれない。

守られ依存し家族がいないと不安になる。

最初は自分にも偏見があった。
自分もすぐに何もできなくなると思っていた。
インターネットに書いてあるのは介護のやり方ばかり。
メディアも認知症になると、まわりが大変と書いている。

実際には、診断前と後で自分は変わらない。
認知症は私の一部であり全てではない。

しかし周りはそうは思わない。
一度診断をされると何もできなくなる人という目で見られる。

偏見の言葉を実際に言われたことはないのに
周りの目が気になってしまう。

実際に偏見の言葉を言われた人もいる。
誤った情報が偏見を生み偏見があるから出かけなくなり
出かけなくなるから進行してしまう。

「丹野さんだからできるのでは。重い人にはできない」という人もいる。
ちがう。どんな方にも気づかれなかった初期の状態がある。

世間に重度になってからの知恵はある。
しかし進行させない情報は足りない。

何もできない人守らなければならない人とされる。
誰が責任を取るのと言われる。

私たちが包丁で指を切っても、自分で対応をする。自分で責任を取る。
認知症だとリスクを負わせてもらえない。
自立を奪ってしまう。
守ることが優しいことだと思っていた。
これが偏見。
認知症という言葉一つで我慢しなければならない現状がある。
実際に自分だったらどう思うかを考えて欲しい。

当事者も自分のことは自分でするという気持ちを持つことが必要。
「丹野くんのように工夫が思いつかない人もいるでしょ」と言う人もいる。
それは守りすぎで工夫する必要が無くなっているからではないか。
実際に認知症の当事者で一人暮らしをしている人は自分で工夫をして生活をしている。

認知症になってもやれること、やりたいことがやれる権利がある。
守られ自信を失い周りの目を気にしてしまう現状がある。

しかし変わってきている。
以前は自分の権利を言ったらわがままだと思われた。
しかしそうではなくなりつつある。


丹野さんのパートナーの方のお話
丹野さんも当初は落ち込んでいた。
5年のうちに色々な人に出会ってだんだん今の丹野さんになった。
まさに進化だと言える。

認知症の人と家族の会をやっていて
元々自分も家族の声から本人を見ていた。
どうやったら大変な本人と付き合えるかを考えていた。
直接本人の声を聞いていたのに心の声として聞いていなかった。
丹野さんと出会ってそれに気付いた。

会合のとき、良かれと思って本人に席を案内し、
お弁当を渡し、お茶を渡していた。
(丹野さんによると割り箸を割ってあげる人もいた)

丹野さんに「なんでそんな風にするの。本人は自分でできるよ。
弁当を取りに行く足もあるしお茶もくめるよ。」と言われた。
これがグサッと突き刺さった。

すぐに実践しようと思って家族に声をかけた。
「自分が食べるものは自分で取ろう」

最初は家族も「今までそうしていたのになんで」という違和感。
「親切にすることの何が悪いの」という声もあった。

しかしかわりにやるのは本来のケアという意味を取り違えている。

元々宮城では「認知症ケアを考える会」という会があった。
しかしそれはケアをする人の物の見方だと気がついた。
今は「宮城の認知症をともに考える会」としている。
言葉は大切だと思う

★日本認知症ケア学会も、日本認知症学会になったらいいなと思った。癌ケア学会なんてないわけで。
手法について語るだけでは、限界がある。

デイの相談員をしている方のお話
2014年から当事者の会をやっている。
診療所に来た人から「病院じゃないところで自分のことを
話せる場が欲しい」という声があったのがきっかけ。

診断直後に泣いていた人も、今では新しく来た方に
「好きなことをすればよいのよ」と声をかけている。
ピアサポートの場になっている。

実は最初の2年は事務局が司会進行をしていた。
しかし今では司会を振って、後は当事者が進めている。
皆さんで司会進行を持ち回りでやっている。
事務局が司会進行をしたことは
今となっては偏見だったと思っている。

★衝撃。リリムジカではファシリテーターが「進行」をしているが、
もしかしたら「進行」すら手放せるのかもしれない。
スポンサーサイト

裸踊りは現実に起こりうるか~石の橋づくりをとおしての考察~

「裸踊り」という有名な動画がある。
https://youtu.be/OVfSaoT9mEM

何か新しいことを始めるとき、最初はなかなか人がついてこない。
しかし、最初のフォロワーがあらわれどのように楽しむべきかの見本を示す。
徐々に人が増え、最後には一大ムーブメントになる。
見たことがない人は、ぜひ上のURLで見て欲しい。

さて実際にこのようなことを起こすことはできるのだろうか。
鯉のぼりを見に出かけた相模川で検証した。

1.検証しようと思うに至るまで
・川遊びをしていたところ、中洲を見つけ、渡ってみた。
途中最も深いところでは自分の身長でひざまでつかる。小さな子が渡るには危ない。
・誰かが積んだ石を発見する。橋にしようとしたのだろう。
完成しているのは川幅の10%くらい。大変そうだが、全く無理ではなさそうに見えた。
・石の橋がかかったら、小さい子どもも渡れる。
楽しそうだ。裸踊りスタイルで完成できるかやってみよう。

2.プロジェクト開始
・最初、無言で石を積み始めた。わが家の子どもたち(7歳&5歳)に声をかける。
「石の橋、つくってみない?」「いいね」
・三人でもくもくと続ける。
・そのうち意図を理解し、ながめる子どもたちがあらわれる。「一緒にやらない?」と声をかける。
・わが家の3人、男の子の兄弟2人、女の子2人と男の子1人の3人グループ。合計8人になった。

180502_01.jpg
↑はじめて少したったころ。まだまだ元気。

3.順調な初期
・ひたすら続ける。完成した姿を思い浮かべるだけで楽しい。体が動く。
・指示せずとも、各自思い思いがんばっている。
大きい石を探す者。幅を広げようとする者。小さい石でバランスを保とうとする者。
・次男(5歳)が「これは会社だね!」と発言。
「パパと●●くん(長男)が始めたから二人が社長だね」という。
(三人で始めた気がするが、、。謙虚な男だ。)
・我が子をふくめ一緒に作業するメンバーには
「大きくてちょうどよい石だね!」などとポジティブな声かけを心がけた。

180502_02.jpg
↑別の角度から。徐々にきつくなってくる。

3.困難に直面
・石を積み進めるにつれ、だんだんと深いところに近づいていく。
置けども置けども石は水面に出てこない。
・しかも、積むに値する大きめの石はすでに近くにはなくなっている。
遠くに取りに行かねばならない。ただでさえ石は重いのに!
・わが家の子たちは飽きはじめ、魚を探しにいってしまった。
・徐々に疲れも感じはじめる。

4.競合の登場
・せっせと橋を積む我々を見て「自分たちもやってみよう」とする者があらわれる。
むむむ。新しくつくるならこっちを手伝ってくれればいいのに。
・「こっちだいぶ進んでいるんだけど、よかったら一緒にやらない?」声をかけるも入ってはもらえず。
・競合はしばらく石を積んでいたが、ほどなくして手がとまり、いなくなった。
思ったほどは進まずあきてしまったのだろう。

5.チームの変容
・我々のグループでも新たに社長を名乗る者が出てきた。
女の子2人&男の子1グループの最年長ど4年生くらい。
「私が社長よ。あなたは橋を広くしなさい。広くしないと反対側から同時に来たときに渡れないわよ。」
友人に対してなかなかの命令口調だ。自分では大して動いていないのに。
彼女の友人たちが適度に言うことを聞きながら手と足を動かし続けているのが救いである。
「橋はバランスが大事よ。そこのオトナ、バランスも考えなさい」
私にも命令してくる。むっとしたので聞き流した。
・わが家の子たちはもう、ときどきしか姿を見せない。父がこんなに頑張っているというのに!

6.暗中模索
・人も少なく、作業も進まず心細くなってくる。
・諦めたくなってきた。最初よりだいぶ進んだ。
これでよしとしてしまおうか。誰かが続きをやって完成させてくれるかもしれない。
・こちらをちらちら見る人にタイミングをみて声をかけるがなかなか仲間に入ってはもらえない。
・一人でも大人がいれば。そう思って誘うも笑ってにごされる。
・心がおれそうになる。「始めなければよかった」とも思った。
・しかし、その間も2年生の男の子ががんばる。彼を見て自分もがんばる。
・それでも、だんだん握力がなくなる。大きな石を運ぶ力がなくなる。

7.救世主
・そこに、めがねのおにいちゃん(三年生くらい)が登場
・小さい子が入りにくい深めのポイントを担ってくれた。二人でやればスピード倍増である。
・さらに2年生男子の母も登場。「そろそろ帰るわよ」まずい!貴重な戦力が抜けてしまう。
・しかし息子ががんばる姿を見てなんとお母さまも加勢。
(早く帰りたい母親と、早く完成させたい我々の利害が一致!)
・離脱しがちだったわが家の子たちも戻ってきた。
・最後のふんばり

180502_03.jpg
↑あと一息!

8.ついに、、完成!
・とうとう橋が完成。
・2年生男子は一度渡って帰っていった。
お母さん「お世話になりました」私「こちらこそ、ありがとうございました」
・自分でもわたってみる。「ああ、本当にわたれる!」声がもれた。
・女の子社長がバランスを重視してくれたお陰で、特に橋の最初と最後は渡りやすい。
真ん中の深い部分は、やはりグラグラである。彼女の指摘は正しかった。
・用があって橋を離れてから戻ってみると、メンバー以外の子どもも大人も渡っていた。
・これがつくりたかったんだ。そう思った。

180502_04.jpg
↑ついに完成!

180502_05.jpg
↑知らない人がわたっている。橋は公共材になった。※この中州は左側で陸地とつながっていて安全です(正確には中州じゃないですね)

9.考察
・裸踊りほどの一大ムーブメントにはならなかったが、仲間を募って完成させることはできた。
・建造する楽しさを感じた。古代の人たちが巨大な建造物をつくるとき、
同様の苦労と興奮があったものと思われる。
・完成をイメージして体を動かし続けられる時期がある。
報酬がなくても行為そのものが目的になっている。
この時期はいつまでもどこまでも頑張れそうに思える。
・とはいえ難局は必ず訪れる。初志を忘れず手を打ち続けるべし。
・仲間の存在は重要。仲間が頑張っているから自分も頑張り続けようと思える。

(追記)
・裸踊りの動画を見返したところ、最初のフォロワーがほかの人を誘っていた。
・今回ムーブメントにならなかったのは、「自分以外が知らない人を誘う」という行為が
発生しなかったからではないか。
・「仲間に入ってくれそうな人がいたら声をかけてくれる?」とメンバーに呼び掛けたら
さらに多くの仲間が入ったかもしれない。
大人たちも、私に言われるより子どもたちに頼まれた方が入りやすいかも。

10年間事業を続ける力になった、4つの出会い①

2008年4月1日

これが何の日か、ご存知だろうか?


柴田と2人でリリムジカを立ち上げた日だ。

つまり、今日2018年3月31日で会社を立ち上げてちょうど10年になる。


現在我々は、未来の人が豊かに暮らせる社会をつくることを究極の目的として、
介護施設・高齢者向け住宅で音楽プログラムを行う事業を営んでいる。

2人きりで始めた会社は、プログラムを行う
ミュージックファシリテーターが28名、
135か所の介護施設・高齢者向け住宅と提携するに至った。

2022年1月期末に100名・500か所を目標とし、
この1年は40名・180か所を目指している。


とはいえ、スッと前を向ける精神状態になったのは、ここ数年のことだ。

当初は何のためにやるのか。確信もなかった。
お金にもならなかった。両親には会うたび「もうやめたら」と言われた。
柴田と私含めてメンバーが5人しかいないときに2人辞めたこともある。


私はどうして10年やめずにリリムジカを続けられたのだろう?
振り返ってみると、4つ重要な出会いがあった。

長くなりそうな気がするので、今日はまず1つめを書く。


それは、妻 千晶との出会い。
彼女がいなかったら、リリムジカは全く違う事業をしていたか、
すでに存在していなかったかもしれない。


千晶との出会いは2009年2月。
ひたすら福祉・介護関係者にヒアリングをしていたころだ。
http://iysks.blog51.fc2.com/blog-entry-124.html

社労士の田谷智広さんに紹介してもらった経営セミナー。
最前列でとなりだった。


セミナー後に声をかけ、名刺を渡した。
「いま、介護・福祉に関わる方にヒアリングをしているんです」

「私、10年特養で働いていたんですよ」

「えっ、本当ですか!」


彼女にまずヒアリング。

ご利用者にしあわせに暮らしていただきたい。
けれども、日々の忙しさや、組織のむずかしさもある。

こういう人たちの力になりたい、と思った。


その後、元々勤めていた施設を紹介してもらい、ヒアリング。
そこがリリムジカ初の高齢者対象・定期的な現場になった。
http://iysks.blog51.fc2.com/blog-entry-159.html


つまり、彼女と出会っていなかったら、
リリムジカは介護の現場で仕事をしていなかったかもしれない。


(お礼と称して食事に誘ったのは、公私混ド・・・、ゲフンゲフン)


そして、過去を思い出して驚いたことがある。

妻は今まで一度も、リリムジカの将来性について疑ったことがない。

「もうやめなよ」とか
「うまくいかないんだったら、ほかの道もあるよ」とか。

言われたことがない。

そもそも妻は、当時ほぼ無収入の私と付き合い、結婚している。

結婚して何年か経った後、「当時どう思っていたの?」と聞くと
「絶対に何とかなる、と思っていた」と話していた。

元々介護の現場で働いていた視点から、
「絶対に必要なサービスだと思った」と言う。

妻は、「支援者」以外で最初にリリムジカに賭けた人だった。
彼女のおかげで、我々は事業を立ち上げ、続けられている。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。