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自分の明日を自分で決めること(介護旅行とマイケアプランの勉強会)

今週水曜日は生田泰宏さん、吉田大樹さんによる介護旅行勉強会。
生田さんによると、旅行には2種類あるそうです。

「行きたいところに行く」旅行。
「行けるところに行く」旅行。

トラベルヘルパーは、行きたいところに
行くことをサポートをする。

そこがバリアフリーだから、安全だから行くのではない。
本人が行きたいところだから行く。

だから、極寒の稚内にだって行ってしまう


続いて木曜日はマイケアプランネットワーク
島村八重子さんによる勉強会。

私は誤解をしていた。
マイケアプランとは、ケアプランを自己作成すること?

違う。

マイケアプランとは、自分の明日を自分で決めることなのだ。
だから、ケアプランを自己作成することにこだわらない。

島村さんのお義母様は、ご近所さんとの交流が好きだった。
だから、足腰がおとろえたあとも、40年間続けた井戸端会議をやりたかった。

どうする?何かサービスを活用するか?
島村さんの回答は、玄関にベンチを置くことだった。

玄関前にベンチをおくと、
いつも誰かがお義母さまと話し込んでいた。
QOLは劇的に向上した。

島村さんのお話で印象的だったのは、
制度と生活の話。

制度にがんじがらめにされて生活をするのではなく、
制度を活かして生活するのだ。


介護旅行とマイケアプラン。
ふたつの勉強会をとおして感じたこと。

それは、やはり、
「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」なのだ。

私たち一人ひとりにかけているのは、
敵を知ること?

いや、己を知ることだ。

制度に、環境にふりまわされて、本当にありたい姿を見失っている。
心の声がきこえなくなっている。

制度も環境も、本当は味方になりたがっているのだ。
彼らを敵にしているのは、自分の意志を知らないから。

感じるままに動く。
そうすれば、障壁だってスパイスじゃないか。
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レビー小体型認知症 家族を支える会の交流勉強会に参加しました

去る2月17日、尾崎純郎さんが事務局長をつとめる
レビー小体型認知症 家族を支える会の交流勉強会を訪ねました。

場所は横浜福祉研究所のメディカルケアコートクリニック。
ホームページの交通案内を読むと、江田または市ヶ尾からバスとのこと。
行きで市ヶ尾のバスはタイミングが合わず、タクシーで向かいました。

あとから教えていただいたのですが、実は江田から徒歩15分程度とのこと。
玄人は歩いて向かうそうです。帰りは私も歩いて駅に向かいました。


ともあれ会場に着きます。席はロの字型の配置。

正面に進行役の尾崎さん、会長の宮田真由美さん、副会長の長澤かほるさん
レビー小体型認知症を発見した医師の小阪憲司さん。

その他の辺に、参加者が座ります。この日の参加者は合計20名ほど。
ご本人、ご家族、介護職その他の方々です。


17時00分定刻になり、会がスタート。
最初に諸連絡、それから参加者同士の対話が始まります。

最初は90歳のお父様を介護される方のお話。

「薬を変えたら血圧が乱高下するようになった。どういうことだろうか?」とか、
「なるべく父に良い刺激、体験をと思い散歩や体操に一緒に取り組んでいる」とか。

正面の専門家みなさんへの質問を交えつつ、介護の体験をお話されました。

82歳でパーキンソン病のお母様を介護する方は、
幻聴について悩んでいるとのこと。

幻覚については、電気を消したり、
「子どもが水道管に入っていくことは無いわよね?」
なんて説明をすることで対応ができる。
しかし幻聴についてはなんて言ったらよいものか、
というお話でした。


その後もご家族のお話、それに対する専門家の回答。

レビー小体型認知症でパーキンソン症状もある。
パーキンソン病で特定疾患の認定を取りたいが、医師の診断が厳格で取れない。

こんな話題も出ました。

それぞれ切実で、かつ幅広い内容。
聴き入っているうち、あっという間に時間が経ちました。


それにしてもご家族の悩みや考えは、本当に幅広い。

医療的なことから、日々の暮らし、病院施設との付き合い方。
しかも、専門家がカバーしにくい(気がする)視点でコメントが入ります。

こういったご家族の“本音”はなかなか面と向かっては聴けません。

しかしながら、サービスを提供する者は、このような
ご家族のかすかな雰囲気や気持ちに応えることが大事だと思います。

本当に求められていることは、明文化されていないわけですから。

尾崎さん、このたびはお誘いありがとうございました。

分析することについて

4月17日、記者で訪問介護もなさっている山神美喜子さんを囲んでの
食事勉強会を予定しています。

参加者は同じく記者の方や弁護士の方、介護福祉関係者、音楽療法士など。

勉強会に向けて、山神さんが書かれた記事を読んで予習をしています。
記事の一部を引用し、感想を以下にひかえます。

『作品の魅力を認めてもらうことが自信回復に』

ところで、アートセラピーと臨床美術では、どこが違うのでしょうか。アートセラピーは、描いた絵から心理状態を分析しますが、臨床美術では分析はしません。絵画や造形などの創作活動によって右脳を活性化するのが目的ですから、あくまで創作するという行為そのものが重要なのです。そのため、できあがった作品の鑑賞会では、講師の臨床美術士は、決して否定せず、その人の作品の魅力を発見して本人に伝えます。青木先生によれば「作品はその人そのもの。表現方法に正解はありません。うまい・へたはないんです。その人に寄り添って、感性を引き出すお手伝いをするのが臨床美術士の仕事です」。講師から作品を認められることによって、自信が回復したり前向きになったり、コミュニケーション力をつける効果も期待できると言います。

全文はケアマネジメントオンラインに登録の上、読むことができます。

分析は、楽しい。
それが、本人の前に立たずに好き勝手言うのなら尚更。

しかしながら、いざ本人を目の前にして同じことが言えるだろうか?
分析したことを話して、本人を動かすことができるだろうか?

その分析のたのしさは、
政治家批判とか、海老蔵批判によくあらわれている。

とにかく対岸の火事。
つまり、口だけ出して手は動かさないのだ。
火の粉をあびることすらない。

本来「分析」とは課題を前向きに解決するための手順として必要なこと。
しかし分析後の行動が伴わないために、画餅になっている。

山神さんの書かれた臨床美術のあり方は、
人として大事な姿勢を追及していると思います。

良いところだけを伝えて、
気になるところはほうっておく。

その間に自分は只走っていく。

人間のすべてを観ることについて

昨日は朝日新聞社の岡本峰子さんにお誘いいただき、
聖路加看護大学でのシンポジウムに参加してきました。

30年後の医療の姿を考える会 第5回市民公開シンポジウム(PDF)

基調講演は一橋大学社会学研究科の猪飼周平さん。

「医学モデルではなく生活モデルで人を観る」

病気を治すことを至上命題にするのではなく、
QOLとかその人の物語性にまで入り込んでケアする。

このような流れが生まれている、というお話でした。


この感覚に賛同します。

お医者さんに行って、病気に絞りすぎた対応を
受けることによってかえって不安になる。


先週、腹痛と発熱によりお医者さんに行きました。

満員の待合室で順番を待ち、具合だいぶ悪かったので、
救急室で横になってさらに待つ。

名前を呼ばれ、ヨロヨロと診察室へ。

「服をあげてください」
冷たい聴診器がヒヤッと胸につく瞬間。

ちべたい。

私はものの温度を感じる人間である前に、
病気をもつ箱である、とみられているのでは?

そんな感覚に陥りました。

(その分、看護師さんが「具合いかがですか?」とか
話を聴いてくださるときの安心感は大きかった!)


我々が提供する音楽療法も、
人全体を観ることを大事にしています。

治せない認知症の人。
元にもどすこと不可能な片マヒの人。

こういう観点からだけで人をみるのではなく、
これまでの人生とか、家族関係とか、好きな食べ物とか。

物語性に重きを置いてコミュニケーションをとります。

その上で、一人一人が楽しさを感じ、
今此処この瞬間を共に生きる。


 ちなみにこの「物語性」という言葉は昨日のシンポジウムで
 中村順子さんが使っていたものです。

 私の考えに、実にフィットする言葉でした。


ここで気をつけなければと思うのは、
「その人その人の今」を共に生きるときに、
医学モデルの知識が全く必要ないわけではない、ということ。

この癌はなおりません。認知症の進行はとまりません。
だから今この瞬間を生ききるしかありません。

こういった思想を強要するものではない。

たとえば認知症の周辺症状が出ているときに、
その原因を考慮せず、
認知症なので受け入れるしかありません。

とか。

こういうのはプロとしてあるべき姿勢ではないと思います。

精神性を語るときほど、物理的なことに注意を払う
必要があるということです。


医学的にどのような対応が可能なのかをきちんと理解する。
対応策がないのか、その策がなんらかの事情で使えないのか。

この背景まで理解したうえで、
音楽療法をサービスとして提供していきたいと思っています。

一点に集中しながらも、なお全体を観る。
木を見て森も見るような視野が必要です。

介護現場の言葉遣い・思考 “慣れ”について

昨日は町田市の認知症ケア研修会に参加。
陽だまりの家町田の吉田ホーム長に声をかけていただきました。


ホールには80名ほどの介護スタッフが集合。
6名のグループにわかれてケーススタディを行います。

70歳代女性。
アルツハイマー型認知症。
要介護度は3。
ご主人と二人でお住まい。

そのほか彼女について情報が与えられ、

“彼女の真のニーズは何か?”
“現在行われているケアとニーズとの乖離はないか?”。

グループ内で話し合います。

ケースの方はデイサービスをご利用とのことで、
とりわけデイでのことについて話し合いを行いました。


私の参加したグループは、私以外に
デイ職員の方が3名、訪問介護の方が2名。

 今3ヶ月デイを利用しているのね。
 週に1回だから、合計12回くらいか。
 最初のころは送迎に来たスタッフにつきっぱなし
 だったけど、少しずつ落ち着けるようになった。

 飲み物はほとんど召し上がらないのね。
 以前トイレに失敗したのかしら?
 無理に飲んでいただくことはないよね。

こんな風に話が進行。

最終的に、

・不安があるからなるべく同じ空間で同じスタッフが
 対応するようにしよう

・水分は自宅だとたくさん取られているようだから
 デイでは強いないようにしよう

・日々のスケジュールはご自身で
 綿密に立てられているからデイでも
 ご自身でスケジュールを立てていただこう

・ご主人が介護疲れで参っている。
 とにかくデイに慣れて、利用してもらえるようにしよう。

という方針を挙げました。


ここでひとつの言葉が気になりました。

“慣れてもらう”。

我々のグループでも出てきた言葉だし、
他のグループの発表にも頻出しました。


“慣れる”

これは具体的にどういったことを表す言葉なのでしょうか?
実は、すごくあいまいなことに気がつきました。

安心して心地よくその場いることも、慣れ。
無理やりその場にいることに“慣れる”こともあります。

プラスにもマイナスにもとれる。

さらに「その場で落ち着かないのは慣れないからです」。

こうすると、“慣れない”背景にあるものが
全部無視されて、原因がすべて「慣れないから」で
落ち着いてしまう。

使いやすい分、思考停止の言葉。


ご家族がきいたらがっかりするかも、とも思いました。

「奥様が落ち着かないのも、慣れないからですね~」

わるいのは妻か、、やはり、妻が認知症だから、、。


デイをどのようにすごされたかについて、
仮説でも、その背景を分析して説明する。

普段のスケジュールと異なる行動をしたから不安を感じられたかも、
とか
顔なじみのスタッフが途中で席をはずしたから
とか。

ご家族もホッされるのではないでしょうか。


「慣れる」という言葉で状況を片付けてはいけない。

私の主たる仕事である音楽療法士と介護現場のつなぎでも
同じことと思い、わが身を省みました。

施設の職員さんに対して、
利用者さんが緊張していたのは、音楽療法に慣れてないからです。

音楽療法士さんに対して、
慣れれば堂々とセッションできるようになりますよ。


慣れるってどういう状態?いつになったら慣れるの?

「慣れる」という言葉を使い慣れてはいけない・・・。
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