「逆ボランティア」をさせたら失敗か

あるデイサービスにフラダンスのボランティアが来た。

そばにいた女性の利用者はニコニコと楽しんでいる。
私も一緒にながめた。

披露が終わり、ボランティアの皆さんが去っていく。
女性はさぞ楽しんだであろう。

「よかったですね。いかがでしたか?」

急に顔をしかめてひと言。
「逆ボランティアしちゃったわね・・・」

なんと!楽しくなかったのか!!


ボランティアだけで本当にいいの?利用者・入居者は楽しめているの?
このことを訴えるときに、逆ボランティアのエピソードを使ってきた。


けれど昨日、ある特養のレク委員長の方と話して新たな視点に至った。

彼女もちょうど、フラダンスのボランティアを頼んだことがあった。
施設に招く前に、一度見に行くことにしている。

正直、いまいちだった。
これは盛り上がらないかもしれないなぁ。

実際に来た。ぼちぼちであった。
けれど、その後が違った。

数日経っても利用者がくりかえし
フラダンスの話題を口にしたのだ。

「あの人トシだったね」
「あの人へただったね」
言葉は文句だが、楽しそうだった。

レク委員長は、このことを評価した。
意味があるかどうかを、私の判断で決めつけてはいけないんですね。

先日「カリスマ先生が去ったあとのクラスは荒れる」
という趣旨の記事を読んだ。

「提供」すればするほど人は受け身になり、
相手に求めるようになる。

むしろ「自分たちは成し遂げた!」という思いを
感じられるようにすることが良い。


音楽で癒す。いい演奏を聴いてもらう。
これは、提供である。

もちろん提供してもらうのは気分が良い。
必要なサービスである。

一方、提供型ではない場をつくる意味もある。
自分たちはやった。できた。と感じられるような。


介護の現場には、利用者本人が
「やった」、「できた」と感じられる機会が多くない。

「自立支援をしましょう」という教えがあっても、
まだまだ提供してしまう。できることを緩やかに奪う。

無理もないことではある。

私が介護職員であったとしても、失敗しないように、
余計な手間が増えないように反射的にサッと手を出してしまうだろう。


とはいえ介護を要する高齢者は今後益々増え、
担い手は思ったようには増えない。

介護施設運営事業者にとっては
「介護サービスの提供」ではなく「共に生きて足りないところだけを補う」ための
業務の組み換えが必要だし、
我々のような関連事業の担い手には
「介護職員と共に利用者・入居者の『できること』を見つける」視点が求められる。


「逆ボランティアしちゃったわよ」という話を聞いて
そんな思いをさせるなんて「今日のボランティアはけしからん」
と憤ることもできる。

しかしこの言葉には、実は、
「私、ボランティアしちゃったわよ」という満足感が
混じっていた可能性もある。

「○○さんにはボランティアマインドがあったのか」
「この貢献意欲を何かに活かせたらより幸せを感じられるのではないか」
とアセスメントすることもできる。

【追記】
フェイスブックで記事をシェアしたところ、
「たとえ楽しそうであっても『あの人トシだった』とか『へただった』という言葉は
聞きたいものではないのでは。」
「来たボランティアがそのように《評価》されていると知ったらどんな気分になるか。」
という指摘をいただいた。

もっともで、自分の視点が偏っていたと思う。

とはいえ、レク委員長が評価したフラダンスのボランティアは、
鼻から評価を求めていなかったかもしれない。

「一緒に楽しみたい」くらいの軽い気持ち。

もし「トシだった」と聞いたら「そりゃそうだ~!あたしら平均80歳。」
「へただった」と聞いたら「月1回しか練習してないからね~!あっはっは」

なんて言いそうな。

だから利用者も気楽に感想を言えたのかもしれない。
想像にすぎないけれども。