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音楽観、音楽療法観の変遷

私はリリムジカの音楽療法について以下のようにありたいと考えている。

音楽療法士が音楽療法をしなくても改善がおこる。
セラピストがその場にいるだけで、場が華やいだり、和んだり。
場を共有した人が幸せな気持ちになる。

まずはそれだけの人格、パワーをもった人になることを目指す。
そんな人がやる音楽療法なら、尚のことすごい。

こういう考えである。

専門性は発揮されるためにあるのではない。
さりげなく課題を解決するためにある。

この考えに至るまではいくつかの変遷がある。

はじめ、私は“音楽”を演奏家のものだと思っていた。
観客と奏者にわかれる。
事実、私が小さいころから15歳まで習っていた音楽は、
常に空間に線引きがあった。
先生と生徒。奏者と聴衆。

音楽療法という概念をはじめに知ったとき、
驚いたのは、場がフラットであるということ。
線引きがない。
少なくとも線引きを志向しない。
誰が演奏しているかを問題にはしなかった。
音楽療法に関する残念な評判の中に、
セラピストが先生然してしまうというのがあった。
だから私たちはとにかく、先生にならないように、
参加者、サポートしてくださる方とフラットになるように。
このことを心がけた。
また、参加者のことを深く知った上でセッションをせねばと思った。
セッションを行う前に半日以上施設を訪問して雰囲気に慣れたり、
細かくアセスメントを行う流れを組んだ。
2009年秋から2010年夏くらいのことだと思う。

その考えが、去年の冬になってまた変わった。
きっかけはテレビでマイケルジャクソンの映画を見たこと。
その日の晩、私は2ヶ月の息子を抱きながらテレビを見ていた。

今日マイケルなのか~。
曲はまぁまぁ好きだった。2、3曲聴いて仕事をしようと思っていた。
しかし、しかしである。
マイケルはあまりに偉大だった。
CMが入ろうが、家族に声をかけられようが、
私は2曲、3曲、4、5、、。
見入っていた。
台湾から来たばあちゃんも。
「この人知ってるよ。すごいよね。」
マイケルは世代を超えた。

結局夜の8時から11時まで、通して観てしまった。
あろうことか、息子を抱きながらステップまで踏んでいた。

このとき気付いた。
究極の自己開示は、それだけで相手に多幸感を感じさせるのではないか。
マイケルは決して言わない。
「みんなで楽しみましょう」「楽器をさわりましょう」「歌いましょう」
しかし私は自らノッていた。目が離せなかった。幸せだった。

そうか。音楽療法もこの方向性がありうる。
究極の自己研鑽により、心地よい自己開示が可能になった人物が、
“やりたい”音楽をやる。

それをきっかけにまわりの人間が我も我もと自己開示。
いいところも、わるいところも、ユーモラスでシリアス。
何が起きたってOK!

私にとっては日々の人との対話がセッション。
こんな対話ができるかどうか、自分に鞭打ち実験です。
私のコミュニケーション方法論が、
リリムジカの音楽療法セッションに活きることになります。

先日船橋市コンフォートケアの形山社長と渡邉統括部長が
当社提供の音楽療法セッションを見に来てくださりました。

形山社長がブログにも記事を。
社長のブログ コンフォートケアのオフィシャルブログ「音楽療法」

当日の様子、すばらしくまとめてくださり
この記事を書く原動力になりました。

形山社長に感謝です。
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