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譲れること、譲れないこと。

《 多くの人に喜ばれるサービスの形を確立する 》

サービスとしての音楽療法提供に携わる者として、
これは常日頃から目指していることです。

しかしながら、サービスが完成し固定化することへのおそれも、
あわせて感じています。

リリムジカが初めて高齢者の施設でサービスを始めたとき、
私はなぜ自分たちが選ばれたかよくわかりませんでした。

なぜなら、実績もなく、音楽療法の具体的な方法論もなかった。


そこで、しばらくしてからそのホームの施設長に
インタビューをしました。

なぜ、リリムジカと一緒に仕事をしようと思ったのですか?

“君たちが、未だ、固まってないからだよ”


この意味は、とても深い。

一般的に、経験を積み、専門家になればなるほど
信頼できると考えられている。

そうではなく、固まっていないことが良い。

どういうことだろうか。


日々働き、手法や理論を高め培う。
そうすると、課題解決の確率が高まる。

一方、過去有効だったパターンへのこだわりも出てくる。
本質的には異なる問題に対し、同じ解決方法を適用しようとし始める。

「これが私のやり方です」

そして、目の前の人のニーズが、思いが見えなくなる。


私は、こうした事態に陥ることを避けたいと思っている。
では、どうしたら良いのだろうか。


譲れるものはすべて譲る。
これでいきたいと思っている。


ときどき、こんなことを言う人がいる。

譲れるものと譲れないものを明らかにしなさい。
そうすれば自分という人間が見えてくる。

とりわけ、就職活動や転職活動のときに、こんなアドバイスがなされる。


しかし、何が譲れるもので何が譲れないものか。
果たして最初からわかるのだろうか。

譲れないと思っていたものをあっさり譲ってしまうケースはいくらでもある。

食べ物の好き嫌いはその典型だ。

私は子どもの頃、茄子が嫌いだった。

だが今は茄子が大好きだ。
浅漬けも、おひたしも、素揚げも茄子カレーも。


譲れないものを自ら定義することが
無礼にあたるとすら思える。

もし目の前にそれを求める人がいたときに、
私はその求めを無視するのか。無視できるのか。



では、私は場の求めに応じてすべてを
受け入れなければいけないのか。

いや、安心していいだろう。

どれだけ自分を変えた、譲ったと思っても、
無意識的に譲れなかったものは必ず残る。

これまでの人生、経験からはからずも
自動的に選択をしているはずだ。

私はこの無意識的な自分を信じる。


譲れなかったものは、本当の自分の軸は、
いずれ周囲がそれを見つけるだろう。

自分は真摯に、愉快に生きたらいい。

「管さんは、いつも一生懸命だったね。愉快だったね。」

私がこの世を去ったあと、
こんな声が二言三言あれば、それで十分だ。

いや、なくたって構わない。
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